HISTORY RESULTS歴史と実績の多田建設
歴史の長さは精度の高さ、
ノウハウの豊富さです。
初代社長、多田嘉作は父米吉のもとで修業を積み、朝鮮に渡り多田建設を築きました。
父米吉の手がけた建築物から現代にいたるものまで、ご紹介いたします。
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1916年~
明治時代
創業当時は、神社仏閣に関わる作品が主流でした。その後、建築事業を主力としており、その施工のノウハウや精度で高い評価をいただき、多くの実績を積んでおります。
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1948年〜
朝鮮時代~戦後復興時代
多田組創業者、多田嘉作は朝鮮に雄飛し、平壌府で数々の大工事に挑戦し、国土建設に専念。今日の多田建設の基礎を築きました。
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1962年~
基礎構築時代
昭和30年代は大型工事が多くなり、工事量も急速に増えていきました。住宅公団の鉄筋コンクリート住宅建設が引き金となり、次第に耐火率が高くなっていく都営住宅や雇用促進事業についても、大きなウェイトを占めるようになっていきました。
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1964年~
高度成長期時代
建設部門と鉄工部門の2部門が堅実有力会社とマスコミから評価をいただき、全国7万8千業者のうち、完工高が140位前後にランクされました。そして、昭和38年4月1日をもって東京証券取引所第2部に上場。昭和39年度契約高集計では200余社中6位と上位へランク付けされました。
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1975年~
躍進時代
昭和50年代に入ってからは、官公需の低調をカバーするため、受注の多様化とキメ細かい受注作成を進めてきました。多事多難を経て予想以上の好業績を達成したのは当社独自の営業活動の展開と、工事施工の合理化に努めた成果であるといえます。
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1986年~
昭和60年以降
昭和61年、多田建設は偶然に存在したのではなく、多くの人々の、また先人たちのそれこそ血の出るような努力と献身的な奉仕、協力によって創業70周年を迎えました。株式会社組織となってから40年の永きを経、基盤を整え、体力を養って関連企業とともに発展をつづけてきました。
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1989年~
平成以降
平成の時代を迎え、多田建設は関係各位のご協力を頂きながら幾多の苦難を乗り越え、社業の発展に努めるとともに施工精度や品質の向上に尽力して参りました。
そして100年の歴史を刻むことが出来ました。これからも100年の技と術を次世代へ繋げて社会へ貢献して参ります。
RESULTS実績紹介
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海石榴との十余年
昭和五十二年の師走に鍬入れした山翠楼の辰沢別館は奥湯河原でも随一の景観が望める辰沢の台地に、高級料亭旅館として翌年の秋竣工しました。
周辺の自然と絶妙の調和をして凜とした気品を見せる数寄屋造りのこの建物は、建築を業とする私達の血を湧き立たせるに充分な名企画であり設計でありました。
館は「海石榴」と名付けられて多くの方々の期待と注目の中て開店されるや、お客様を、感嘆させる全く新しい趣向のもてなしで魅了し続け、忽ちにしてわが国の名旅館の項点にお立ちになり今日の温泉旅行とグルメブームの先鞭をつけられ、業界の発展に大変な貢献をされておられることは皆様ご承知のとおりであります。
施主様はこのご盛業のさなかに山翠楼本館を料亭旅館とするために源氏別館の新築と大改装で純和風化する工事を終えられ、次いで海石榴の集大成と銘打たれて迎賓館の建築をご計画になられました。日本建築に造詣の深い施主様の思い入れは設計事務所によって練り上げられ、地上四層地下一層に書き上られた絵図面は施主様の数寄の心を彷彿とさせる、力作でありました。
この魅力一杯の工事を弊社にご下命を頂き五十九年の秋に起工いたしました。工事中は「数寄屋造りは優雅閑寂に」を大目標にして、よりよい材料と職方の選択を重点とし、美しい木割や納まり寸法等を考案して出来栄えの向上に努めました。
施主様や設計者の細心のご指導のもとで十一ヶ月の間に格調高い仕上りを見せた迎賓館は、三十一回の伝統を誇る神奈川県の建築コンクールで絶讃され六十一年度一般建築部門の最優秀賞を受賞し海石榴の集大成となる大役を果すことができました。
私共は日々“事上磨練”仕事を師として研鑽に励み、末永くお役に立ちたいと念願しており、このたびの受賞はまことに意義深く喜ばしいことと存じます。
神奈川県奥湯河原温泉
京風懐石 海石榴(つばき)
昭和61年(1986年)建築 神奈川県湯河原町所在
地上部:鉄骨造、地下部:鉄筋コンクリート造、地上3階建て、地下2階建、延床面積3,007,652㎡
感性は安らぎを求め、構造柱のごつい存在性を巧みに消し、照明器具を調和させ、空調吹出口の存在をも気付かせない。高級志向とはいえ、社会の利用に広く開かれたこの建築は、建築主、設計者、施工者一帯の成果を顕現した力作で、価格ではなく文化的質が高く、用に適って美しい賞賛に値する建築である。